「人間の心の中には動物と仏様とが同居している」(p232)
直江氏は「人間は動物と神仏との混血である」とか、「人間の心は動物心と仏心でできている」と人間の心を在り様をとらえていたようです。人間の心の中にある仏とは何なのでしょうか、読み解いて参りたいと思います。
慈愛本能は、地球という惑星に寄生する人間に、無意識のうちに動植物を保護管理させるために、特別高度の知能と共に持たせられた、「神仏性の本能」である、と私は確信しております。(p97)
直江氏は慈愛本能を神仏性本能と定義しました。神仏性という言葉は辞書にはありませんので直江氏の造語でしょうか。直江氏はあらゆる宗教に精通しながらも仏教を深く追求した方ですから、神仏性とは「仏性」という言葉に由来するのではないかと推察しました。「仏性」とは、仏教の根本的概念の一つです。「涅槃経」という経典には、
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
とあり、「すべての生きとし生けるものは、仏になる可能性を有している」と説かれています。仏性とは仏になる資質や本質のことで、すべての人間は生まれながらに仏性を持っている、すなわち、すべての人間には仏になることができると考えられています。しかし、仏性は人間が持つ煩悩によって覆い隠されており、修行によって煩悩を取り払わなければ仏性が自覚できません。さて、煩悩とはなんでしょうか。「大晦日の除夜の鐘を突く回数が108回というのは煩悩の数だ」などと耳にしたりしますが、世間では、「楽をしたい」「お金もちになりたい」「美味しいものを食べたい」といった、怠惰な欲望のようなイメージを持たれているフシがあります。実は煩悩とは仏教用語です。語源はサンスクリット語の「クレーシャ」で「汚す」「苦しめる」という意味であり、中国に渡って「煩悩」と翻訳されました。仏教において煩悩とは人間を煩わせたり、悩ませたりするものであり、言い換えれば人間を苦しめる心のことを言います。百八あるという煩悩の中でも代表的なものは貪(どん)=むさぼり、瞋(じん)=怒り、痴(ち)=ものの道理がわからないこと、慢(まん)=自らを高くみるおごり、疑(ぎ)=仏教の心理を疑うこと、見(けん)=邪悪で誤った見解、を六大煩悩と言い、中でも貪、瞋、痴は三毒と言われ最も人の心を毒す煩悩と言われます。貪とはむさぼりの心であり、自分だけが良くなろうとする強欲で利己的な心です。瞋とは怒りや妬み、憎しみを自制することなく感情的に他者に向ける心。痴とは愚痴とも言い、物事の道理や心理に対する無知の心です。このように煩悩とは単に人間の欲望を表した言葉ではありません。煩悩がある故に人間関係を壊してしまったり、家庭が不和になってしまったり、仕事で失敗したり…、人間は煩悩によって心身を乱し、悩み、苦しみます。故に、この煩悩を消滅させて苦しみから解き放つことが仏教の目的でもあります。煩悩を消滅させるということは、人間の心にある仏性を見る(自覚する)ことです。煩悩を根底から取り除き、自己に打ち克ち、迷いを捨てることを仏教では「悟り」と言います。
五本能人生論に基づいて考えてみましょう。煩悩とは欲望ではなく、欲望を遂げようとする際に発する欲求意識の一種に分類されます。怒る、憎む、恨む、妬む、悔やむ、などの心情はまさに煩悩であり、これらの心情は欲求が偏っている時に発生します。人間が最も偏りやすい本能は、安楽本能を始めとする動物性本能です。動物性本能ばかりを偏って充実させると、悦楽を求め、怠惰に生きることを求め、自己の利益ばかり追求し、結果的に煩悩のような欲求意識を多く発生させる原因となるでしょう。
このように人間は動物の一員であるが故に動物本能に偏りがちです。その一方で、人間は生まれながらにして無償の慈しみや深い愛情が内在しています。動物や植物を慈しみ、人を愛し、弱者を労る心を生まれながらにして持っているのです。それが「慈愛本能」です。人間は慈愛本能が最も不足しがちです。動物本能に偏ってしまうと「慈愛本能」に気が付かなかったり、慈愛本能を充足させることを怠ったりします。その結果、自己の利益ばかりに執着したり、他人を蔑んだり、憎んだり、争ったり、まさに、煩悩に支配され、苦しむ人生になってしまいます。
動物本能に偏らず慈愛本能の充足に努めるということは、煩悩を消滅させ(発生させず)、人間が生まれ持った慈しみ深い心を輝かせることです。まさに仏教でいうところの仏性に通じます。故に直江氏は人間が生まれ持った慈愛本能に仏性(仏の本質)を見たのではないでしょうか。慈愛本能とは神や仏に通じる人間が生まれ持った崇高な本能なのです。
私は仏様という方は、人間の真心の象徴だと信じております。(p266)
慈愛本能から発する欲望は愛だけであり、愛とは無償の慈しみという思いやりの欲望です。純粋に「愛」という欲望を相手に向けたとき、相手の気持ちを思いやり、相手が喜ぶこと、相手のためになることをしたいと思います。そして、行動します。これが真心です。真心とは真実の心と書きます。嘘、偽りのない心です。真心は慈愛本能から発する純粋な愛であり、他の欲望と絡みません。人間の仏性である慈愛本能から発する「愛」という欲望の結晶、それが真心です。ですから、人間の真心とは心に内在する仏であり、仏とは、人間の慈愛本能から発する純粋な「愛」という欲望の結晶=真心である、と直江氏は悟ったのでしょう。
このコラムを書いた人:杉山英治
企業ブランディング戦略構築コンサルタント。
薬師堂グループのCI構築に携わる過程で五本能人生論に出会い、「人間は何のために生きているのか?」という壮大なテーマの泥沼に陥る。
株式会社デザイントランスメディア 代表取締役。