一旦この世に生まれて来て、人生の諸行は人それぞれ、この世の人為の現象は、全て人間の欲望の化転具象、色とりどりの栄枯盛衰、徒に驕るも愚性、かりそめの憾みはさらに虚しく、やがては万人等しく大宇宙の掌中に霊化昇天するものです。「死」こそが、万人に共通する帰結と申せましょう。(p224)
この一節を読むと平家物語 第一巻「祇園精舎」の情景が思い浮かびます。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
平家物語は鎌倉時代に書かれたとされる作者不明の軍記物語で、平家の栄枯盛衰、武士の台頭などが描かれています。冒頭の「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一文は日本人なら誰しも一度は聞いたり、学んだりしたことがあるのではないでしょうか。祇園精舎とは古代インドのコーサラ国の都シラーヴァスティーにあった寺院のことです。釈迦のためにたてられた寺院であり、釈迦が説法をした場所であることから、現在では仏教の聖地のひとつとされ、遺跡公園として残っています。
祇園精舎の一角には無常堂があり、死期が迫った僧たちが最期の時間を過ごす場所でした。僧が命の終わりを迎えたとき、軒にさげられている鐘が鳴り、僧を極楽浄土へ導いたといいます。つまり、諸行無常の響きとは修行僧の命が消滅したことで世の中の全てのものが移り変わる無常さを鐘の音から感じるという意味です。沙羅双樹(サラソウジュ)とはインドから東南アジアにかけて広く分布する樹木で沙羅の樹(サラノキ)とも呼ばれます。仏教では二本並んだ沙羅の木の下で釈迦が入滅した際、一瞬にして花は色を失い白化したことから、この世のすべてのものは永遠に続くことがないという真理を表しています。いくら驕り高ぶっていても、春の夜の夢にように儚く覚めやすく、どんなに強い者でも風の前の塵にように無力。このように、平家物語の序文はどれほど栄華を極めた者でもいずれ終焉を迎えるというこの世の移ろいや虚しさを表しているのです。
平家物語の影響かどうかはさておき、私たち日本人は「諸行無常」と聞けば、咲き誇る花がいつしか枯れていく様子や、人が年老いていくこと、ときには死を意味する言葉として、「諸行無常」=この世の儚さと理解しているふしがあるように思います。「諸行無常」とは釈迦が悟ったとされる仏教の三つの真理、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の一つです。一文字ずつ分解すると、諸:この世の全て、行:物事や出来事、無:ない、常:一定である、変化がない、という意味を持ちます。つまり、この世の全ての物事は一定であることなく、たえず変化を続けていくもの、という意味です。
「人生は諸行無常だから儚い」などと言えば、直江氏はきっと「人生が儚いなんてお釈迦様がおっしゃるはずがない」と断じたでしょう。人生は諸行無常(たえず移り変わる)であるが故に、その時その時をどのように生きるかが大切であると考えていたに違いありません。
本コラム冒頭で引用した一節を私は次のように読み解きました。
この世に生まれた全ての人間は万人一様に五本能が備わっており、五本能から発する欲望の充たし方によって人生は良い方向にも悪い方向にも変化をする。地位や経済力を手に入れる瞬間もあるが、それに慢心して、思い上がった態度をとることは全くもって愚かなことであるし、苦境にある時に努力をせず恨み妬みを持つことは全く浅はかなことだ。なぜならば、人生は諸行無常、すなわち、この世の全てのものはたえまなく変化を続けるからだ。この世に生を受けるのも無常、人生が流転することも無常、不幸になることも、幸福になることも無常。大宇宙という神の掌の中で生き、人類に与えられた存在義務を果たし、最期の時を迎えることも無常である。
色即是空を会得し、天寿を完了した時、自らの「五本能」を完全充足し終えているか否かで、死そのものの悲喜明暗が岐かれます。五本能を満杯にした人は、心豊かに満足して子孫に別れを告げる事が出来る筈です。(p224)
全ての人間は動物の一員としてこの世に生まれますから、動物性本能を発揮して生命を維持し、最終的には動物性本能によって死を迎えます。ですが、私たちは大宇宙の神秘により他の動物たちと違って特別高度な知能と共に神仏性本能をもって生まれました。ですから、生かされている間は五本能を満遍なくいっぱいにすることに励み、人間の義務を果たし、そして、子孫たちにバトンを渡していくことこそが私たち人間に与えられた使命なのです。
直江氏が菩薩号を送っても良いとさえ感じた松下幸之助氏は、平成元年四月二十日、気管支肺炎のため治療を受けていました。「これから管を喉に入れます。すみませんがちょっとご辛抱お願いします」と声をかけた主治医に対し、声をふり絞るように、「いやお願いするのはこちらの方です」とやっと聞き取れる声で返答したそうです。これが氏の最期の言葉となりました。まさに、五本能を満遍なく満杯にして昇天霊化されたのでしょう。
「色」(体)と「空」(心)は一心同体のものだよ。体が病気になれば、苦しさで心も暗く曲がって来る。心が曲がって正しくない時は、肉体にも異変が起こったり、怪我をしたりする。健康な体にこそ正しい心が宿り、正しい心でいると体も健康になって来る。だから、心正しく体を大切にして、皆仲良く働き、平等に助け合って生きるのが、幸福な人生を全うする方法だよ。釈迦は恐らくこんな事を教えて、自分も民衆と一緒に働いたのではないでしょうか。でなければ原始の大昔に八十歳もの長寿を完うできる筈はないのです。(直江氏の昭和58年の講演記録)
直江氏はお釈迦様の悟りを人生に取り入れた方というべきか、色即是空を悟り、人間の五本能を明確に解明した上で、ご本人は最期まで社員や地域の方々の健康と幸せを願いながら一緒に働かれていたのでしょう。松下幸之助氏と同様に全く完全に五本能を満杯にして大宇宙神の一部になられたのだと推察致します。
さて、これまで私の稚拙な文章におつきあい頂き誠にありがとうございました。本コラムを持ちまして私の「五本能人生を読み解く」を完結いたします。コラムを書かせて頂いた1年半の間、会社でも自宅でも旅先でも、片時も五本能人生論を肌身離さず持ち歩き、ふと思うことがあればすぐに本を開くという大変ありがたい日々を過ごしました。私の五本能のコップはまだまだ満たされておりませんが、満遍なく満杯にする旅路を楽しみつつ、「五本能人生論」のすばらしさをたくさんの方々に伝えて参りたいと思います。
このコラムを書いた人:杉山英治
企業ブランディング戦略構築コンサルタント。
薬師堂グループのCI構築に携わる過程で五本能人生論に出会い、「人間は何のために生きているのか?」という壮大なテーマの泥沼に陥る。
株式会社デザイントランスメディア 代表取締役。