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法螺と嘘の違い



法螺とは神秘的作話と解釈すべき言葉で、法螺が入っていない宗教はありません。(P21)

一般的に「ほらをふく」と言えば「でたらめを言うこと」、「ものごとを過大に言うこと」を表しています。いったいこの「法螺」とは何でしょう?

法螺とは、法螺貝で作った楽器のことです。大きな巻貝である螺貝に穴を開けて吹き鳴らす道具です。昔から世界各地で楽器として、または、合図を送るために用いられてきました。日本でも山伏や修験者が携えていることでよく知られています。

実は「法螺を吹く」とは仏教用語です。法螺はサンスクリット語[dharma- śaṅkha(ダルマ-シャンカ)]の訳語です。ダルマは法や教え、シャンカは螺貝の意味を表しています。
この言葉は様々な経典にも登場します。例えば、法華経では、「大法螺を吹き、大法鼓を撃ち」と記されています。『心地観経』は「大法螺を吹いて衆生を覚悟して仏道を成ぜしむ」と説いています。法螺の音が力強く遠くまで響き渡ることから、仏の説法が遠くまで響き渡る様子に喩えています。「大法螺を吹く」とはお釈迦様が教えを説くという意味です。今日一般的に使われている「ほらをふく」とは、「凡人のくせにお釈迦様のようなことを言う」というニュアンスから「身の丈に合わない偉そうなこと言う」といった意味に転じ、それが次第に「でたらめを言う」、とか「嘘をつく」といった誤解に繋がったのだと考えられます。ですから、本来「法螺」と「嘘」は全く違う意味を表す言葉なのです。

法螺とは仏の説法である、ということは前述しましたが、そもそも仏の説法とは、様々な例え話や伝承的な物語を通じて教えを説いていくことが多いものです。例えば、仏教における超能力的な力を神通力と言います。空を飛んだり、水面を歩いたり、世界のすべての声を聞き分けたり、他人の心を読み取ったり…。現代では非科学的とされることですが、仏にはそのような力があったと経典に記されていたりします。仏教だけではありません。例えば、キリスト教の聖書においては、

旧約聖書『創世記』創世記 1章1-8節(口語訳聖書)

1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。
7 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。


これが聖書の冒頭です。神が天地を創造するシーンから始まります。創世記はモーセが著述したとされています。モーセといえば映画「十戒」(1956年)が日本の地上波も何度も放送されたこともあり、海が割れるシーンはあまりにも有名です。この映画は旧約聖書の出エジプト記を原作として描いたものです。


仏教、キリスト教に限らずあらゆる宗教は、現代では非科学的とされる物語=「神秘的作話」が含まれています。神や仏が人智を超える存在であることを人々に分かりやすく理解させるためだったのでしょう。人智を超える存在だからこそ、人は神や仏を信じ、心の拠り所とします。自分一人では解決できないことを、人智を超えた存在に託し、祈ります。これが信仰です。

宗教だけではありません。古代では、嵐や地震、火山の噴火など、自然災害に人々は畏れ慄いていたでしょう。雨が降り続けたり、雨が全く降らない日が続いたり…、このような説明がつかない自然現象に対して、人々は畏怖を感じ、日頃の行いが神の怒りをかってしまったのではないか、と考えたはずです。神の怒りを鎮めるために、祈ったり、儀式を行ったり、供物を捧げたりしました。まさに神秘的作話によって安心を得ようとしたのです。

科学が発展した現代においても、例えば、「悪事を働けば結果的に自分に帰ってくる」とか、「誰もみていないけどお天道様は見ている」とか、神秘的作話をもって自分を戒めることがあります。また、仕事で大きな失敗をしたり、困難な壁にぶつかったりした時は、「これは私にとって試練だ」と、神秘的作話を持って自己を奮い立たせようとします。

信頼本能によって神秘的作話を信じた結果、心が安らかになったり、心の拠り所になったり、戒めになったり、奮起したり…。直江氏はこのような人間を善い方向に導く神秘的作話を「法螺」と位置づけました。



信じると害を起こすものは偽の法螺で、それは嘘です。(p110)(P21)

悪意のあるカルト宗教にも強烈な神秘的作話がつきものです。妄信的に信じてしまい、気がつけば、お金、家族、友を失ってしまいます。カルト宗教の神秘的作話は宗教とは名ばかりの巧妙な詐欺です。心身ともに弱っている者だけでなく、何の不自由もなく暮らしている頭脳明晰な大学生まで騙してしまいますから非常にやっかいです。

騙されないためには、その神秘的作話が果たして「法螺」なのか、「嘘」なのかを見抜く必要があります。法螺は人間を善い方向に導きます。決して見返りを求めてきません。どれだけ人の心によりそった神秘的作話を装ったとしても、その代償として、例えば、お金を求めてきたとすれば、その時点でそれは「法螺」ではなく、ただの「嘘」となります。人間を善い方向に導く宗教と、悪質なカルト宗教の違いは法螺と嘘の違いです。

宗教が果たす「人間を善導する」社会的な仕事の重要さを思うと、立派な法螺は人間の精神的文化とさえ思います。死後でも霊が残るという法螺は、生前の人の愛は死後も残された人の心の中に残るものだ、と言う事実を神秘的に言っている(p228)




このコラムを書いた人:杉山英治

企業ブランディング戦略構築コンサルタント。
薬師堂グループのCI構築に携わる過程で五本能人生論に出会い、「人間は何のために生きているのか?」という壮大なテーマの泥沼に陥る。
株式会社デザイントランスメディア 代表取締役。



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